2012年9月18日 (火)

【特別対談】 池上 彰 vs 近江 誠

世界を動かし 歴史を変えた 感動のスピーチ 名演説

                                               文芸春秋『嗜(たしなみ)』 No.12、2011 Autumn

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2012年8月31日 (金)

ことばの力、ことば以外の力

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の記事をご覧ください。


AKB総選挙5位 篠田麻里子スピーチ批評

Dscf1096small スピーチ批評という視点がある。我が国の言論界、教育界、マスコミにおける空白部分である。今日、情報通信空間は硬派なものが一方において存在しながら、多くはいわゆる”2チャンネルに代表される感想文、印象批判、過剰反応であり、無理が通れば道理引っ込む、さながら文化の下剋上を思わせる状況である。
根本原因としては国民がスピーチ・演劇学などを通して学ぶことができるレトリック(修辞ではない)、論理学、インタープリティブ・リーディングなどの訓練が学校教育においてなされてこなかったからだと私はいってきたが、ここではこれ以上は触れない。ただこれらの混沌状態から脱し、他人の口頭、文書表現を正しく理解し、同時に自分自身も目的に沿って正しく表現していく、リテラシーの高い国民に互いに育っていくことは時代のニーズ、生き残りのための必須条件であるということだけは指摘しておきたい。

私は昨年文藝春秋の『嗜み』No.12で池上彰氏と「世界を動かし歴史を変えた感動のスピーチ 名演説」というテーマでの対談を行った。
池上氏は主としてジャーナリスティックな視点、私はレトリカルな視点で東西古今のいくつかの名演説、スピーチを取り上げた。しかし、実はレトリカルな視点に基づくスピーチ批評は、演説やスピーチだけではなく、ありとあらゆるレベルのコミュニケーション、すなわち個体内(間)コミュニケーション、組織内(間)コミュニケーション、国家内(間)コミュニケーション、そしてそれらをすべてに存在する異文化コミュニケーションのすべてにあてはまる。しかもコミュニケーションといったら、言語を介するもの、介さないもの、あるいは意図的ではなく無意識的なコミュニケーションを含むので、極端にいえば、森羅万象、人間の営為そのものまでもまな板にのせうる。
 さて、「世界を動かした」があれば、当然「世間を騒がした」もあれば「世間を喜ばした」もある。社会的なものもあれば反社会的なものもある。
そこで、本年6月6日から始まってマスコミをにぎわした「AKB48,第4回総選挙」なるものにおいて、話題となった「篠田麻里子のスピーチ」をスピーチ批評風に展開させてもらうことで、スピーチ批評というものの大体の感じを感じとってもらえば幸いである。

篠田麻里子スピーチ (テキスト)

 こんなにも素敵な順位をありがとうございます。こうやってみなさんの温かさやありがたみを本当に感じられるのもこの総選挙だと思います。私はこの総選挙が嫌いではないです。自信があるからではありません。自信は無いですし、今日まで、この日が来るまでは凄い不安でした。眠れない日もありました。だけど、こうやってみなさんの温かい声援と温かい気持ちがぶつかる今日の日を、この緊張感を味わえる今日を、自分にとっても凄い成長できる日だと思っています。 「後輩に席を譲れ」と言う方もいるかもしれません。でも、私は席を譲らないと上に上がれないメンバーはAKBでは勝てないと思います。 私はこうやってみなさんと一緒に作りあげるAKB48というグループが大好きです。だからこそ 後輩には育って欲しいと思ってます。 悔しい気持ちすごくあると思います。正直私も今びっくりして、少し悔しいです。でも、そうやって悔しい力をどんどん先輩、私たちにぶつけてきてください。 潰すつもりで来てください。私は何時でも待っています。そんな心強い後輩が出てきたならば、私は笑顔で卒業したいと思っています。 最後に、この票数は今日までの私の1年間の評価ではなく、今日から来年までの篠田麻里子への期待だと思ってます 。来年はもっともっと期待されたいと思ってますけど、この期待を胸に今日から頑張っていきます。よろしくお願いします 。 

 今これを取り上げているは、スピーチから数日経過した時点においてである。スピーチ批評とはスピーチそのものの分析はもとより、それが向けられた聞き手の反応をある程度見届けてからでないと完了できないからである。 スピーチ批評は、以下コミュニケーション行動を考える際の「7つのポイント」から個別に、且つ総合的に分析していって、最後にその効果を考えるという手順を踏む。 なお、好き嫌の感情はこの際、抜きにして是々非々の立場に立つ。

1.語り手(WHO)は篠田麻里子26歳。
2.聞き手(TO WHOM)はAKB支持者。
3.時(WHEN)は2012年6月某日。
4.場所(WHERE)で、AKB 総選挙結果発表後のファンとの対面の場。
5.謝意を述べつつ今後の決意を表明するし,引き続いての愛顧を願うという目的(WHY)達成。
そのために――
6.どういう内容のことを(WHAT)
7.どのような展開と言語、非言語を選択し(HOW)、WHATにどのような機能と付加的な意味が与えられているか。そしてその効果(EFFECT)はどうであったか。

  まず篠田という語り手は、5の目的達成のために、アリストテレス以来の説得法といわれるエトス(語り手の属性)、ロゴス(論理)、パトス(心・感情)に訴える方法のうちいずれを選択しているだろうか、と考える。 この際、篠田麻里子は一位になったときなどのことも含めてスピーチを考えていたか/いなかったかということも問題になる。なぜならスピーチというものは語り手が話し始める前から、個体内コミュニケーションという形で始まっているからである。私は彼女の頭の中には、そして彼女の性格からしても、なにがしかの〝凱旋スピーチ“のアウトラインはあったように思えてならない。「潰すつもりで来い」という発想は、それにピッタリだからである。 ちなみに準備がいけないわけではない。そもそも準備とは草稿を書いて暗記することとは限らない。むしろいいスピーカーとは準備をしていて、なおかつそれに囚われずにコミュニケーション場面における突発性に当意即妙に変化できる柔軟性を持っているスピーカーなのである。

■ロゴスは主役ではなかった。 蓋をあげてみたら最高位ではなかった。そして「潰すつもり」と口にした彼女は「少し、悔しいです」といってしまった。これは厳密には論理的ではない。 しかし論理的であることが必ずしもいいわけではないし、もし篠田が、真の勝者はかくあるべしなどという点を理路整然と展開させたとしたらむしろ逆効果であったろう。 今回、聞き手が共鳴したのは、そういったわけでどうやらロゴスではなく、パトス、そしてエトスによるものであるといってよい。

■パトスのDeference(恭順):強いものに従い仕えたい欲求/マゾヒズム/引き際の美意識/判官びいき/Nurturance(養護):可哀そうな「麻里子」を助 けてやりたい欲求/などを充足する方向に機能した。 序の社交辞令的な挨拶に続いての本論では、「席を譲らないと上に行けないメンバーは、AKBでは勝てない」「潰すつもりで来てください」という男性的な価値観を、クールな彼女の印象の助けも借りて打ち出してきた。これが、皆が入賞という今どきの運動会が象徴的な時代に育った若者の中の、<Deference(恭順):強いものに従い仕えたい欲求>充足の方向に機能しなかったとはいえない。当日の「おう!」という聴衆の反応や、その後のネットへの書き込みからもそれは伺える。年配世代も「この子いうね」と思った向きも多かったようである。そればかりか、草食系男児のバシリと叩かれたいという欲求、<マゾヒズムの満足>させる方向に機能した点があるかもしれない。いや、語り手が若いからというものでもない。個人差だ。若くともムチという小道具を持っている大島優子の姿は想像できにくい。ムチは麻里子の方に似合う。 強さだけではない。「潰すつもりで」は、叱咤激励である。それどころか篠田は、「そんな心強い後輩が出てきたならば、私は笑顔で卒業したいと思っています」といっているが、これは日本人の<引き際の美意識>を大分くすぐったと思われる。事実これに対しても世代を問わず悪い印象を持つ者はいなかったようである。 とはいえ、篠田の現在の立ち位置は、昨年より票数は多かったといっても順位は4位から5位に下げている。そして、このやや微妙な位置が、日本人の聞き手に対しては、結果として彼女のスピーチを受け入れやすくしたのではないか。もし彼女が大島優子をしのいで圧倒的な一位で、あのスピーチをしたら、恰好はいいかもしれないが、おそらくは敵意を持たれた可能性はある。 プロレスを唯一の例外として、日本人という聞き手(TO WHOM)の心の中には, 時代は変化しても徒然草の「花は盛りに、月は隈(くま)なきをのみ見るものかは」がある。朝青龍や北の湖は強すぎて敬遠された。高い順位ではあるが彼女にとっては十分ではない篠田の立ち位置は、聞き手の<判官びいき>にも訴えることに貢献したといえよう。 実際、篠田の言語表現化された「少し悔しい」は「点」ではなく、通奏低音のように彼女の中に最初から終わりまで流れている「線」であったとみるのが妥当である。「強い女も時々は人に隠れて泣くものよ…」という越路吹雪の「東京の門」のセリフではないが、こらえている涙に、背後に流れる気持ちの線――サブテクスト(せりふした)との間に明らかにずれがあるにもかかわらず、悔しさを、自分自身への励ましの気持ちと、自分よりさらに悔しい思いをしている後輩へのメッセージに転換、昇華させた。このストイックな緊張感が、いじらしさとして多くの聞き手の中に<Nurturance(養護):可哀そうな「麻里子」を助けてやりたい欲求>充足にも向かわせるようにも機能したのではなかろうか。 ということになると篠田麻里子は、微妙な空間に身を置いたことによって、図らずも彼女自身の強さと弱さを暴露し多くのファンの心を掴んだといえるのかもしれない。

■ エトス:いままでのものと先につながるもの  スピーチは内容が良かったから、あるいは聞き手の価値観と合致したから好印象を与えるというものではない。例えば、上の内容を小沢一郎が言ったらどうか想像しただけでわかる。篠田という語り手が言ったからということがある。この差を生んだのが、語り手のエトス(語り手の属性)の有無、あるいは小沢とは異なるエトスである。ヒットラーは「大衆は女である」と言い放った。良くも悪くも類型的には女性的な感覚を持つ日本人を説得するにはエトスの果たす役割はことさらに大きいのである。  このエトスを語り手はどういう風にして獲得していったかということだが、 彼女の場合、まず他のAKBのメンバー同様に、これまでに培ってきたパーソナリティーや容姿などからくるものがあったの当然として、今回のスピーチの中で披露されてきたパトス的説得の経験は本人の履歴となって内在化され、ほとぼりが冷め、アクが抜けたあたりから増大されたエトスとなって今後の芸能活動においてさらに大きく彼女を助けていくのではなかろうか。    というようなわけで、およそ今の日本人受けしないようなことがスピーチ批評、レトリック批評である。データーが不十分で推量が多いが、考え方の何がしかはわかっていただけたと思う。日本人受けしない。だからこそ必要なことであると声を大にして言いたい。

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